今日10月20日はワンマン宰相と言われた吉田茂氏の命日です。
2011年 10月 20日
私は平成2年より旧吉田茂邸のある神奈川県の大磯に17年間住んでいましたので、
大磯町の旧吉田茂邸保存をめぐっての集会などにも参加し、氏を身近に感じています。
吉田茂氏は1878年(明治11)東京に生まれ、戦後7年2カ月にわたって吉田内閣を組織し、
戦後の混乱期にあった日本を優れた政治感覚と強いリーダーシップで復興へと導き、
戦後日本の基礎を築きました。
1953年のバカヤロー解散や、カメラマンへ水をかけたり、労働組合を「不逞のやから」
と言うなどの破天荒ぶりで有名ですが、反面、持ち前の愛嬌とユーモアで敵陣営にも
人気がありました。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」
と呼ばれていました。
晩年、世界の中の日本のあり方を問われて「世界の中の日本になったのだから、
日本人だけの日本だと思って勝手な真似をしてはいけません」と語りました。
1967年10月20日、89歳で逝去し、戦後初の国葬でテレビ中継され、亡くなったときの
枕元には使い込んで汚れた仏和辞典が置かれていたそうです。
大磯町の旧吉田茂邸保存をめぐっての集会などにも参加し、氏を身近に感じています。
吉田茂氏は1878年(明治11)東京に生まれ、戦後7年2カ月にわたって吉田内閣を組織し、
戦後の混乱期にあった日本を優れた政治感覚と強いリーダーシップで復興へと導き、
戦後日本の基礎を築きました。
1953年のバカヤロー解散や、カメラマンへ水をかけたり、労働組合を「不逞のやから」
と言うなどの破天荒ぶりで有名ですが、反面、持ち前の愛嬌とユーモアで敵陣営にも
人気がありました。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」
と呼ばれていました。
晩年、世界の中の日本のあり方を問われて「世界の中の日本になったのだから、
日本人だけの日本だと思って勝手な真似をしてはいけません」と語りました。
1967年10月20日、89歳で逝去し、戦後初の国葬でテレビ中継され、亡くなったときの
枕元には使い込んで汚れた仏和辞典が置かれていたそうです。
by aula-magna
| 2011-10-20 21:42
| ・日記
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