イタリアオペラ翻訳家 とよしま よう のブログです。


by aula magna
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『妖精ヴィッリ』と『カヴァレリア・ルスティカーナ』

プッチーニ(1858-1924)は、1883年4月の楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の
「一幕物オペラの懸賞募集」に、師であるポンキエッリの薦めもあって応募し、
初めてのオペラ『妖精ヴィッリ』の作曲に着手しました。しかし締め切りが同年
12月31日であったため、オペラの楽譜を清書することが出来ずそのまま送った
と言われています。
翌年の初めに落選が伝えられたものの、しばらくして、プッチーニはポンキエッリの
紹介でミラノのマルコ・サーラ邸で行われたパーティに出席し、『妖精ヴィッリ』の
一部をピアノを弾きながら歌ったところ、居合わせた作曲家アッリーゴ・ボーイトの
賞賛を受け、ボーイトの尽力によって1884年の5月31日に地元のテアトロ・ダル・
ヴェルメ劇場で初演されることになりました。初演はアキッレ・パニッザの指揮で
行われ、大成功を収め、プッチーニによれば、上演が終わると第1幕がアンコールされ、
カーテン・コールは18回にも及んだとのことです。
このとき、オーケストラ・ピットに音楽院時代の友人ピエトロ・マスカーニ(1863-
1945)がコントラバス奏者として入っていましたが、マスカーニは初演の成功を
目の当たりにして大きなショックを受けたと伝えられています。

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プッチーニとマスカーニは5歳の年齢差はありますが、ミラノ音楽院の同期生で、二人共貧しい
中で音楽の勉強をしていたため、音楽院の近くの小さなアパートを共同で借り学校へ通って
いました。このときの貧乏生活の様子は、プッチーニの「ラ・ボエーム」の中にも描かれています。
第2回のコンクール開催は5年後の1888年7月1日に発表され、募集要綱は前回とほぼ同様であった
ものの、プッチーニ『妖精ヴィッリ』の影響もあってか、締切は前回の9か月後から延長されて
11か月後の1889年5月31日、また「総譜は読みやすいように書かれるべきこと」という条件が
新たに加えられました。
ポンキエッリが1886年に死去していたこともあり、審査委員は前回に継続してのガッリ、プラタニア
の他、作曲家ダルカイスおよびマルケッティ、そして、ローマサンタ・チェチーリア音楽院より
ズガンバーティが招かれ、応募総数73作品の中から、ピエトロ・マスカーニの『カヴァレリア・
ルスティカーナ』
が圧倒的支持を受けて最優秀作品に選出されました。
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by aula-magna | 2015-07-30 16:22 | ・イタリアオペラの話 | Trackback | Comments(0)